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ヘテロリウムノススメ 序文

ヘテロリウムとは、「人間のために設計された人工物でありながら、

人間以外の生物によって全く異なる用途を見出された物体や環境」と定義される、

アクアリウムでもテラリウムでもない、 新しい観察のための方法である。

アクアリウム やテラリウムにおける環境製作の第一条件とは、飼育される生物が水槽やケージの外部、

すなわち人間側のアーキテクチャに侵入する選択肢 (コマンド )を与えないことにある。

これは、原理的に生物のスケールに関係なく、 ベタの飼育ビンからサファリパークにいたるまで

すべからくそのように設計されている。 これに対し、ヘテロリウムにおける環境の第一条件とは、

観察対象が 人間側のアーキテクチャに侵入する選択肢 (コマンド )をもつ生物であることにある。

それは、最も身近な例でいえば、冷蔵庫の裏に生えたカビや、 キッチンに現れるゴキブリなどのことであり、

ヘテロリウムはそれらの生物を観察対象とする。

そしてなにより、ヘテロリウムにおいてはそのような「招かれざる客」たちが

人間のアーキテクチャの中で単なる部外者として振る舞うことを飛び越えて、

その空間をどのように解釈しているのかを観察し、描写する。

例えば、 シンクの裏側の溝は、ゴキブリによって道となりうる。

建築物の外壁は、つる植物にとって立ち上がるための杖となりうる。

ヘテロリウムにおいて本質的に観察されるべき対象は、招かれざる客たちそのものではない。

ヘテロリウムにおいて観察されるべきものとは、それら招かれざる客の思わぬ視点によって、

まったく別の空間へと変容する、人間側のアーキテクチャである。

したがって、その記述の対象を科学的な正確さで描写する義務はない。

しかし、この様式に認められる自由な記述は、明晰な対象の観察によってのみ成立するべきであり、

その対象への無理解や、虚偽からくる記述によって成立することのないように注意しなければならない。

このことも含め、観察の際のガイドラインとして、以下のいくつかの事柄を特に注意しなければならない。

ヘテロリウムにおいて推奨される優れた体験とは、人工生態系の創造や自然環境の模倣ではない。

ヘテロリウムにおいて推奨される優れた体験とは、人間のアーキテクチャに侵入した異物としての生物が、

その空間の可能性を拡張する瞬間を観察することである。

そのようにして、日常空間を異化する生物との出会いを探し出すことが、 ヘテロリウムの本懐である。

ヘテロリウムにおける観察の契機は、菌、植物等を含む生物でなければならない。

そして、観察者は自らの目にうつるモノを、彼らの魂でとらえなければならない。

すなわち、ヘテロリウム観察者は、その観察の第一条件として、

人間と動物のあいだにある共通項を、動物性ではなく、人間性であると心得なければならない。

なぜなら、ヘテロリウムは、空間の可能性が削減されるばかりのこの世界で、

それぞれの「人間たち」にとって排他的に重なる複数の自然という環境の捉え方を引用し、環境を考察する手順だからである。

ヘテロリウムを観察するとき、あなたの目は、あなたの目のままだ。

しかし、あなたの魂は、あなたの魂のままではない。

あなたの魂は、観察対象の生物になかば乗っ取られていなければならない。

したがって、例えば、塩害によって赤化したトタンを観察することはヘテロリウムの発見にはつながらない。

しかし、繁殖期のカニに占拠されたアスファルトを観察することは、ヘテロリウムの発見へとつながる

(ただし、もしあなたが赤化したトタンに魂を感じ取れる稀有な感性を持ち合わせているのであれば、その限りではない)。

また、招かれざる客を想定されていないという観点から、

公園や、計画整備された壁面緑化を観察することはヘテロリウムの発見ではない。

しかし、つる系植物に覆われ、不可避的に侵食されたツタビルを観察することは、 ヘテロリウムの発見へとつながる

(ただし、もしあなたが壁面緑化された建物の中に想像を絶するような生物の侵食を見つけた場合は、その限りではない)。

肝心なことは、人間にとっての特定のアーキテクチャが、

それらの生物にとって別のアーキテクチャとして現れていることを観察し、

その空間の可能性を再設定することである。

2020年8月10日 龍村景一

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